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ツッコミ日記 Encylopedia


[松本零士][アニメ] アニメFILMS −東映アニメーションの50年− [長年日記]

2007年05月01日 02:07更新

アニメFILMS −東映アニメーションの50年−

2007/03/25(日)、神奈川県にあるランドマークホールにて行われたトークライブと999の上映を鑑賞してきました。

この週はイベント盛りだくさん。前日が銀河鉄道物語のイベントでその翌日がこれ、ということでゆっくりできません。その前日も気がかりだったのが、23日の訴えの件。その件で急に忙しくなって……ということも懸念してたんですが、無事すべてのイベントが行われたので安心しました。ただ、舞台挨拶に続いてこちらもマスコミが来るのだろうと思ってましたが案の定。今日のイベントは前日以上にマスコミが来ており、おそらく民放各局がカメラ持って来ていたのではないかと思われます。

イベントですが、まず松本先生のトークからはじまりました。司会と松本先生とのトークで、司会が話題を振って、松本先生がそれについて話をするという形式です。トーク後はフォトセッションとなり、マスコミ各社は別の場所で訴えの件を聞いていた模様。我々はそのまま銀河鉄道999の上映となりました。

で、この999なのですがとりあえず画質が悪いのはまぁいいとして、どうもテレビ放送用に編集したフィルムを使っているのではないかと思われ、CMが入りそうなところで妙に削除されてるところとかあったのが残念でした。せっかくの機会なのだからちゃんとしたものを見せて欲しかったです。

以下、メモをもとに再作成したトーク内容です。すべてを網羅してませんし、再作成している関係で若干本来の言葉や文章の前後関係と違う部分があることはご了承ください。

・デビューが高校生だった話

デビューは高校1年の時に。原点は明石です。昭和18年(5歳の頃)に様々なものに触れたことが影響しています。そこで見聞きしたことが土台になっているんです。

・小倉に住んでいた頃、近くに中尾ミエさんの実家があったそうですが…

中尾ミエさんの実家、ホウブンカン書店が近くにありました。

・アニメーションとの出会いについて

明石の映画館で「くもとちゅうりっぷ」を見たんです。後年、手塚さんに『キミはくもとちゅうりっぷのようなマンガを描くのはなぜだい?』と聞かれ、明石の映画館で見たことを伝えると、同じ映画を手塚さんも見ていた、ということがありました。当時上映期間は1週間だけでしたから(以下略)。

・999への特別な思い入れ

戦後、小倉で極貧の中暮らしていました。18歳の時に『お前は親より先に死ぬな』と言われました。極貧から抜けるためには自分で稼がなければならない。

私が上京した時、まだ当時は蒸気機関車でした。東京まで一昼夜かかるんです。その時、二度と戻らないと覚悟を決めて乗りました。18歳だから興奮して寝られないんです。街灯も無いから真っ暗な中を星空が流れていく。まるで宇宙の中を走っているようでした。メーテルのような絶世の美女がそばにいるのを想像する。いつかこんな漫画映画を作るぞ、とその時思いました。

・50年という年月を経て、先生の目から見てアニメ業界はどんな成長をしていったか

白蛇伝の8mmを上映してみたことがある。資料として実際に動かしてみたかった。館主に見つかったけど『バレないようにやれよ』と。今ならつまみだされますね。

父親が好きで、家に35mm映写機があったんです。燃えやすいフィルムを5歳の子供がいじってた。戦時中にディズニーのアニメを壁に映していた。

手製のマルチプレーンを作ったりして実際にアニメを作ってみたことがありますが、15秒だけ作って、1人では無理だと思いました。これが20歳の時です。ここからヤマトに出会うまで16年かかります。その頃は自分が戦えるものがマンガだけでした。

・今後のアニメーション、未来のアニメーションについて

いずれ、モニターやスクリーンは無くなると思います。いつ消えるのだろうか、と。

昔、アニメは手書きでした。心がこもっていました(マインドアイ)。CGだけになるとマインドアイが少し冷たくなるんです。でもCGでマインドアイを込められる人が出てくる。そしてそうなって今度は世界中と競争することになる。その時にぜひ頑張って欲しい。

目的意識を持っていれば、いつか戦わねばならない時がある。死ぬとわかっていても戦わねばならない瞬間がある。夢は時間を裏切らない。漠然とした夢じゃなくて、ボーっとするんじゃなくて、目的意識を持っていずれ夢が叶う。向こうから近づいてくる。

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